今日は新宿のホテルに一人で泊まっています。
28日と30日、X JAPANのライブに行ってきました。
…感無量。この言葉がぴったりでした。
人は、何かにすがって生きている生き物だと思います。 「すがる」というのは、俗に使う「女々しい」感じではなくて、 本来の「頼りとするものにつかまる」という純粋な意味で。 それは間接的に、「何かを手本にして、目標としている」という言い方もできるかもしれないけど。 豊田佐吉という人や、福沢諭吉という人や、信長という歴史上の偉人にその対象を求める人もいれば、 親や兄弟、会社の上司や師匠という人もいるかもしれません。
僕にとって、大きな存在の人の中に、YOSHIKIという人がいて、HIDEという人がいて、TOSHIという人がいます。 (PATAやHEATHは、どういう人かがよくわからないので) そして、そんな彼らが創り出すバンド、X JAPANは僕にとって、 かけがえのない存在です。
Xというバンドに知り合ったのは、中学校2年生の時。 クラスで仲の良かった友達が、「SEX、かーんーじーてみーろ」と歌っていました。 それは、同時、多感な少年で、「X」を「SEX」に言い換えて歌っていたのでした。 しばらくは、そうやって、言葉遊びをしていたのだけれど、彼らの音楽にのめりこむにはそんなに時間はかからなくて、、、 激しいビート、隙間のない音楽、独特な世界観で創られた歌詞。そのどれもが、自分にとって、新鮮で、聞けば聞くほどのめりこんでいきました。
最初は、HIDEに惚れ、そして憧れました。妖艶ないでたち、ライブパフォーマンス。ギターソロのときには輝き。。。。メンバーそれぞれに個性があるバンドだけれども、彼の醸し出す雰囲気が僕にはぴったりとはまりました。 毎日のようにXのCDを聞き、毎日のようにXのビデオを見て。。。。 HIDEに憧れて、ギターも始めました。中学3年生のとき、お年玉をためて、札幌まで買いに行きました。。 。それが今の楽器の弾ける自分を作ったきっかけになっているわけです。
Xを通じて、大切な親友もできました。当時、高校1年生で、Xを教えてくれた友人の中の一人が、自分の通っている高校、、、中学を卒業してばらばらになったんだけれど、、、にXを好きなやつがいて、そいつが一緒にバンドを組みたいと言っている、、、って聞いて。二つ返事で承諾して、バンドを組んで。
今は、お互い忙しく、京都と北海道で離れているため、会うことも連絡を取ることもできていないんだけど、その親友と高校時代にバンドを組み、ともに夜を明かし、ライブを開き、チケットをつくったり、曲作りをしたり、詞について話し合ったり、悩みや相談を打ち明けたりもしました。Xの詞によって、そして、友と詞を書き、その思いの表現方法をあーでもないこーでもないっていいながら、、、、、自分の心を打ち明ける中で互いの心を知り、そんな友を大切にし、自分というものを深めたりして。そういう中で、今の自分の人間性の根が創られていったと、今でも思っています。
そんな中学・高校時代、本当にXが好きで好きでたまらなかったんだけど、、、、、ライブには一度もいったことがありませんでした。 自分はとても奥手な人間だったこと、そして家が金銭的に決して豊かとはいえなかったこと、、、今思えばそれは僕の高校生なりの親への気遣いで、勘違いだったみたい、、、、で、いったことがなかったわけです。 ライブにいくというのは、とてもお金のかかることだという固定観念もあって。 だから、Xのビデオを毎日のように見て「いつかは自分もこの場所にいたい」そう思っていたのでした。
Xというバンドは、YOSHIKIの納得いくまで追求する姿勢の負の部分として(それ以上に正の部分が大きいのですが)、新しいアルバムを作るのに2年も3年もかかるバンドです。なので、普通に、まだかまだかと待ちわびていたんだけれど。
大学2年生のとき。その知らせは突然、僕の脳天に直撃して。 「X JAPAN解散」の文字でした。 理由は、TOSHI。 「音楽性の違い」とYOSHIKIは当時いっていたけれど、その本質の部分がわかるにはそう時間はかかりませんでした。それはトリガーにすぎなく、本質的には「生き方」の問題でした。TOSHIは疲れたわけです。
のちのインタビューでYOSHIKIも言うように、TOSHIは元々「普通の人間」なんだそうです。「バレーボール部」に入るような。あの過激なMCも過激なメイクも、YOSHIKIとHIDEで作り上げていた。それに彼は疲れてしまったのだと。「自分はYOSHIKI、HIDEの次にしか人気がない」だとか、長年自分の体の一部がコンプレックスとして持ち続けていて、、、とか。 YOSHIKIの納得のいくまで追求する姿勢もまた、彼の心とXとのかい離を生んだみたいで。。。何度も何度も何度も何度も、同じフレーズを歌う。YOSHIKIは、そのひとつのフレーズにTOSHIの魂を込めようとする。抽象的な表現で指示をしますが、TOSHIにはそれが伝わらない。で、結局、「じゃぁ、TOSHIの好きなように歌ってよ」という感じだったそうです。YOSHIKIはTOSHIの声を愛している。愛しているがゆえに、要求が高くなってしまう。愛しているがゆえに、愛するものをさらに美しく素晴らしいものにしたいと思う。。。。そうして録音したTOSHIの声にYOSHIKIは最新のデジタル編集を施します。そして、それを聞いたTOSHIは、「これ、本当に僕?」とYOSHIKIに聞いたそうです。それはあまりにきれいな自分の声だったためです。 本当なら嬉しくなるのかもしれませんが、納得して歌っていないTOSHIにとっては、「ありのままの自分」ではなかったのだと思います。 「ありのままの自分」それを押し隠して生きてきたTOSHIが、「ありのままの自分」を表現したいという道を選んだ。それが解散の本当の理由でした。 ショックでした。YOSHIKIの気持ちも、HIDEの気持ちも、そしてTOSHIの気持ちも理解できました。
やるせない思いの中、HIDEファンだった自分はその心のよりどころをHIDEに求めました。Xに向けていた分のすべてを彼に。 そのころからHIDEは特に、前向きなメッセージ性に富んだ歌を書くようになりました。 ROCKET DIVEという歌がそのころの歌です。
けれど、、、、彼は帰らぬ人となりました。 人間、本当に有事のときには、ドラマのようになるものです。 大学時代の行きつけのハンバーガー屋さんで、テリヤキバーガーを食べてました。母親から電話が入って話を聞いたとき、冷静に受け止めようとしたんだけど。。。。ハンバーガーを口にほうばったとき、涙とともに体が動いていました。食べかけのハンバーガーと飲みかけのコーラをテーブルに置きっぱなしにして、店をでました。2キロも離れたアパートまで、全速力で走り、TVのスイッチをつけました。その夜は眠れず、朝の4時にコンビニへスポーツ新聞を買いに行きました。そのとき、初めて、実感しました。
すべてが現実から消えたことを。
そこに残されたのは、愛するTOSHIとHIDEを失い絶望に打ちひしがれながら記者会見をしているYOSHIKIと、XとHIDEの数枚のCDとDVD。 Xが解散し、もうライブにいけないと絶望しながらも、HIDEに託したその思いもすべて、彷徨いました。
それから10年。
狂ったように、HIDEの音楽を聞いた時期がありました。彼の残していった音楽は常に斬新で、残していった詞は僕の心を励まし、慰めてくれました。彼の晩年の作品、ROCKET DIVE、PINK SPIDER、ever free、In Motionは、特に悩み迷った自分を奮い立たせてくれました。
ここ3年くらいになって、Xの曲の詞に込められたメッセージがわかるようになってきました。それからは、本当にXに慰められ、励まされてきました。YOSHIKIの書く詞は、抽象的な詞です。一見、(男女の)恋愛の詞のようにも見えます。けれど、彼の書く詞は『生(せい)』の詞なんだなって。恋人だけでなく、自分に置き換えても、家族に置き換えて聞いても、自分の抱える『愛』や『葛藤』や『希望』が含まれていたりする。ここ数年、自分の歩む道(職業や生き方という意味で)に悩んでいた自分は、たくさんこの歌から前が見える瞬間がありました。 詞の意味がわかると、その曲が深まりました。感情に突き刺さってくる。
自分にとってのX JAPANとは、そういう存在です。
YOSHIKIという人の、睡眠時間を削ってでも納得いくまで追求する姿勢や、自分がしたいことに対して貪欲な姿勢で取り組むこと、何事に対しても真摯に向き合う姿勢、実直な人間性であることを尊敬しています。自分に「やれるもんならやってみろ」と問いかけ、「やってやれないことはない」と答えることも、彼の言葉です。彼の新しいプロジェクトであるVIOLET UKが活動を始めたここ2年はそれがまた、自分の支えと目標にもなりました。
1月30日、Yoshiki Mobileでの先行発売。ライブチケットの抽選に当たった時は、胸が高鳴りました。 17年越しの夢、、、、もう二度とかなわないと思っていた夢が、目の前に。
チケット配給会社の手違いで、手元にチケットが届かず、3月28日、現地で受け渡しがなされました。座席番号がB-10ブロック(ステージから100メートル、中央の花道からわずか10メートルほど)と記載されているのを見たとき、手が震え、涙がこぼれました。
17年越しの念願のライブ。
それはまさに、自分にとっても、「破壊の夜」であり「創造の夜」でした。